仙 巖 園
*-*-* Kagoshima City in Kagoshima Pref. *-*-*
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諸情報
仙巖園(せんがんえん:別名 磯庭園)
鹿児島市吉野町字磯にある薩摩藩主、島津氏の別邸跡とその庭園をいいます。敷地面積は約5ha。1658年(万治元年)に19代当主であった島津光久によって造園され、その後も歴代当主による改築が重ねられてきました。借景技法を用い、桜島を築山に、鹿児島湾を池に見立てた素晴らしい景色と広大な庭園が特徴で、1958年(昭和33年)に国指定名勝となりました。
幕末には28代当主・島津斉彬がこの敷地の一部を使ってヨーロッパ式製鉄所やガラス工場を建設するなどの近代化事業(集成館事業)を起こしました。
1857年(安政4年)には、園内の石灯籠にガス管をつないで点火させ灯火として用いたことから、日本のガス灯発祥におけるルーツの一つとして挙げられる場所にもなっています。春の曲水の宴や江戸時代の作法に乗っ取って行われる端午の節句、七夕の展示などが有名です。
尚古集成館(しょうこしゅうせいかん)
仙巖園(磯庭園)の隣にあり、薩摩藩主 島津斉彬(なりあきら)が反射炉や農工具ガラス製作所などの工場(集成館)として造った石造建造物で、その内の蒸気鉄工機械工場の跡が現在の尚古集成館です。
島津斉彬が薩摩藩主になった当時、中国でのアヘン戦争などでイギリス、フランス、アメリカなどの欧米諸国がアジア各地で植民地化を進めていた時期であり、危機感を抱いた島津斉彬は富国強兵、殖産興業をスローガンに現在の鹿児島市磯地区を中心としてアジア初の近代洋式工場群を建設に取り掛かりました。特に製鉄・造船・紡績に力を注ぎ、大砲製造から洋式帆船の建造、武器弾薬から食品製造、ガス灯の実験など幅広い事業を展開しました。
この当時佐賀藩など日本各地で近代工業化が進められていましたが、島津斉彬の集成館事業は軍事力の増大だけではなく、社会インフラの整備など幅広い分野まで広がっている点が他藩と一線を画します。斉彬死後、集成館事業は一時縮小しますが薩英戦争でイギリス艦隊に打撃を与えたことで、斉彬の集成館事業は見直され、集成館機械工場(現尚古集成館)、日本初の紡績工場である鹿児島紡績所を建造するなど日本の近代化に貢献しました。 |
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訪れた感想
仙巖園内は、とても落ち着く綺麗な庭園があり、それに良く似合う古い建物、またそこから望む桜島とも相俟って、素晴らしい景観が広がっていました。時間には余裕が有ったので、ハイキングをしているかのように隅から隅まで歩いて見て周る事が出来ました。(少々時間をかけ過ぎて尚古集成館では、ゆっくり出来なかったのですが…)近くに見える桜島も迫力があり、疲れた心を癒してくれる素敵な場所でした。
園内のお店屋さんでは、伝統工芸硝子細工の薩摩切子をじっくりと見させていただきました。完成までの何段階かに別けた未完成の切子も置いてあり、その作り方も解り易く展示しています。少々値段は張りますが、その精巧な完成品を見ていると納得のいく価格でした。とても心惹かれる商品がいくつかあったのですが、え〜・・・・・手は出せませんでした・・・。この次来た時には必ず!!!
食べ物は、ソフトクリームにジャンボ餅(両棒餅)。このジャンボ餅、大きなお餅と思ってしまうのですが、そうではありません。2本の竹串に刺さったみたらし団子を平べったくしたようなお餅で、醤油と味噌の2つの味があります。その2本の串が武士の両刀刺しを象徴していて両棒餅(二棒)の両=リャンが鹿児島風に訛ってジャンボ餅と呼ばれるようになったそうです。焼き立てのジャンボ餅、とても美味しいお餅でした。 |
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